立岩真也氏の『弱くある自由』の一節を読んで、具体例に即しつつ800字でまとめさせる問題である。
課題文は、長いので割愛する。
課題文の筆者は、「自己決定」の主張は「迷惑をかけない限り、何をしてもよい」ということだが、この「迷惑」の範囲は、「自己決定」の原理の中に含まれていないので、「どんな自己決定についてどこまで寛容であるべきか」という基準について言及する必要がある、ということを述べている。私は、人が「他者によって与えられた不都合や手間のうち、何を「迷惑」と判断するかは、与えた人が普段からどのように認知されているかによるのだと考える。
課題文中の例にもあるように、筆者の念頭には、身体の障害のために、あらゆる行動に他者の協力が必要な人々の場合がある。筆者も言うとおり、本来このような協力活動は「迷惑」ととらえられても不思議ではない。しかし、普通私たちはそのような場合に「迷惑をかけられた」とは見なさない。むしろ、ボランティアやヘルパーなどによる介護等の必要性が当然のこととして盛んに論じられている。
一方、例えばあるスポーツクラブに所属している人が、不可抗力の事故で試合に出場できなくなったときに、「チームに迷惑をかけた」と発言する場面をよくみる。多くのチームメイトも「迷惑」をかけられたと感じるようである。これは、「迷惑」が不可抗力に起因するということでは前者と共通する。それでも反応に違いが出るのは、後者が普段は周囲の人々に自己責任をとれるとみなされている人物であるからである。
このことは私たちは、責任のとれる人とそうでない人を普段の状態により区別し、違った対応をすることを習慣づけられているということを示している。このことは一方で、自己責任がとれないとみなされた人々が、できうる限りの能力を発揮して自立する際の足かせになっている可能性がある。私たちが「共生社会」を実現していくために変えていくべきことの一つであると思われる。
これは一次試験の問題であり、それは通過したのだが、よく合格したものだと思う。
まず、論述のポイントを絞っているのはいいとして、小さくまとまりすぎて、「だからなんなの」といわれかねない点。重箱のすみをつつくようなテーマ設定なのだ。
そして視野が広くない。事前に各個人に貼られたレッテルにより「迷惑」の範囲が違うという指摘から、「自己責任がとれないとみなされた人々」だけではなく、後者の方にも不都合が出てくるのではないか、と今では考えて、そちらのほうに論を膨らませるだろう。
この具体例は、普段から「なんかな~」と思っていたことをストックしていたものを使用したのだが、本番の試験にはそういう都合のよい例が見つからないかもしれない。
ちなみに二次試験は不合格だった。無理もない。
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