2007年5月22日火曜日

すきずき

私はなんらかの物事の好悪を表明(「告白」と書いてやめた)することが非常に苦手である。「ジャズ好き」とか、ブログ上で発言しているわけであるが、これはブログだから可能なのであって、リアルではまず不可能といっていい。とくに「好き」は困難を伴う。それに付随する私の属性については特に語るべき言葉を持たないが(なんだそりゃ)、それを言う事は、他人に対して私は「~好きの人間」という属性として認識されるということを意味するわけである。それが非常になにか、その他人に自分が「支配」されているような関係に入ったように思ってしまう。つまり今後私はその人の前では「~好きの人間」でいなくてはならないのである。これは私にとって非常に息苦しい状態である。
その原因として私が記憶しているのは、ある小学校での出来事である。小学校低学年のある図工の時間に私はある絵を描いていた(何の絵かは忘れてしまった)。すると、先生が近づいてきて「~の絵を描いているの?」とたずねた。普通のたずね方である。わたしは「うん」だか「はい」だかこたえた記憶がする。しかし、それから、わたしはその絵を描き続けにくくなった。なにか、自分の描いていたものと、たずねられたものが違ったような気がする、あるいは、たずねられることによって、自分の描こうとしたものが別のものにずれてしまったのか。奇妙な違和感にとらえられた。
上記のできごとは、もちろん、私が物事の好悪を表明することに関する困難さに関する物語として捏造したか、あるいは、特別にフレームアップされていることが考えられなくはない。このような場所があれば、同様の出来事や不都合が起きたときに、いつでも逃げ込めるからである。
人間関係一般として、趣味嗜好などを手がかりとして関係の糸口をつかむことは、よくあるだけでなく、必須でさえある。また、このようにして知った情報によって、本当に当該の他人の支配をもくろむ種類の人間も確かに存在する。どんな形にしろ、個人の情報を公開するということは、他人に支配させる危険をおかすことになるのは確かだと考えられる。
記憶をメンテナンスして他人の理解と自己認識とを一致させれば支配することにはならないのか?。そうではあるまい。それもなにか気持ち悪い。平凡な結論になるが、他人とは決して理解できないものだと認識しておくことがカンヨウかと思うのである。ああへいぼん・・・

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