感情の鈍磨、白のプードル@『茶色の朝』Bien sûr je pensais au petit garçon que j'avais croisé sur le trottoir d'en face, et qui pleurait son caniche blanc, mort à ses pieds. Mais après tout, s'il écoutait bien ce qu'on lui disait, les chiens n'étaient pas interdits, il n'avait qu'a en chercher un brun. Même des petits, on en trouvait. Et comme nous, il se sentirait en règle et oublierait vite l'ancien.
・・・・
もちろん、むかいの歩道ですれちがった
小さな男の子のことも頭に浮かびはした。
足元で死んでいる白のプードルのために泣いていた。
だけどあの子だってきちんと話を聞けば、
犬が禁止されたわけじゃなくて、
茶色のやつを探せばいいだけだとわかるさ。
子犬だって見つけられる。
そうすれば、俺たちと同じように、
規則を守ってるんだと安心して、
死んじまった昔の犬のことなんてすぐに忘れるだろう。
(仏文http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/758.htmlより)
『茶色の朝』についてはすでに様々なことが言われていてここで付け加えるのもなんですが・・・ある時代ある国で、猫の増えすぎを防ぐという名目で、茶色の猫以外は禁止する法律ができ、犬も茶色以外は禁止される。そのうち、茶色を守ることが有益だと科学的に証明したと言う科学者のテスト結果を疑っていた新聞社が弾圧をうける。それぐらいしかたないか・・・と思って我慢し、また積極的に順応していた「おれ」や「シャルリー」のもとにも、以前茶色以外の動物を飼っていたということで、当局の手がせまる・・・・
もちろん「以前茶色の動物を飼っていたこと」を取り締まるのは「事後法」にあたるので、この物語全体が現実にそのまま起こりうることではないだろう。だがそれがこの作品の価値を貶めることにはならない。むしろ全体主義はもっと巧妙に誘導されるし、そうなっていると思わなければならない。「なに色だって猫にはかわりないのに、とは思うが、/なんとかして問題を解決しなきゃならんというなら、/茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律だって仕方がない。」問題を過大に喧伝し、「解決法」をもっともらしいデマとともに提示し、なんとなく仕方がないという空気をつくる。この手法は私たちのくらす社会でもおなじみのものだ。
さて、上に引用した部分は「茶色に守られた安心、それも悪くない。」というより有名な一文の直後に続く。茶色の猫を飼い始め、規則に順応して生きる「おれ」は、男の子が白のプードルを処分されて悲しんでいるのを見かける。なのに、その「悲しみ」にまったく共感できない、「茶色のやつを探せ」とまで思う。感情が完全に摩滅し、鈍感になってしまっているのだ。
ところで私たちの社会では、一方で「悲しみ」への共感を訴えることばであふれている。しかしどの事態で悲しまなければならないか、フィルターがかけられている。((イラクで人質になった人の家族の悲しみ、等))この場合なら、死んだのが茶色の犬だったらどうだろう?。おそらく、男の子の悲しみに共感することができるのではないか。順応しない悲しみは「悲しみ」とは認定されない、ということだ。
規則に順応するとは、感情まで順応させることなのだ。いくら態度や行動を問題にするといっても、規則はいやおうなく感情を支配する。白いプードルの死に悲しむような非公式な感情を、異物として排除し、そのような感情を持つ他者の存在を抹消する、そんな社会にしたくない。
「感情の摩滅、鈍感」というポイントに絞って記述。有名な本なので、異なった観点を提示したい。まあもっと前に言っているひともいるかもしれなくて、恥をさらすことになるかもしれないが・・・。なにか「切り口」がなければ記述が平板になって面白みに欠ける。
本の内容に関する要約を、もっと簡潔に行うべきだった。ちょっと回りくどいカキカタだ。「要約力」に課題があると感じている今日この頃である。「要約」は結構脳細胞をフル回転させる作業である。文全体を理解し、ポイントをおさえて記述しなければならない。反面、これが上達すれば文章力が向上するとされている。
「死んだのが茶色の犬だったらどうだろう・・・」のくだりだが、これは作品に記述がないことなので、論拠は薄いかもしれない。疑問を振ることによって説得力を増すつもりだった。
人気blogランキン
グへ
0 件のコメント:
コメントを投稿